摩利支尊天とは
なぜ当神社にも祀られたのかは「縁起」のページをご参照下さい。
このページでは、一般的な解説をしています。
当神社に限らず「摩利支尊天」は、日本へは仏教から入ってきた神様で、さらにインドの信仰までさかのぼります。「太陽の徳」と「月の徳」の2つを合わせ持つ神様として、この世や人々にに明かりを灯すことができるとされています。
摩利支天に関する経典によれば、基本は「天女姿」であることが説かれています。時に、男性に姿を変えて、悪を滅ぼしに出陣することも知られています。
神社・寺院によっては、最初から「男性姿」の摩利支天像が祀られているところもございます。
摩利支天にお仕えする動物として、「亥(イノシシ)」が存在します。摩利支天は亥の上に乗るか、亥が牽く車に乗り移動することが知られています。
摩利支天の持ち物のひとつに、「針と糸」がございます。摩利支天には、「善女人・善男子を、事実無根の話でもっておとしめる者があれば、その口を針と糸で縫い、さらにその目をも開けなくするように縫い、善女人や善男子にそれ以上の被害が及ぶのを防いで下さる。」という言い伝えがございます。
摩利支天は陽炎(かげろう)の化身としても伝わり、その姿は透明で捉えることはできないことから、誰からも傷つけられることが無いとされ、武将たちからは戦に出る際の「守護神」として信仰が増していきました。
摩利支天の信仰は、特に信州伊那地方では盛んでした。当神社も信州飯田一門(長野県飯田市を拠点とする旧大名家)が起源です。
室町(戦国)〜江戸時代
摩利支天が軍神として信仰された中世、徳川家康公、前田利家公、毛利元就公、山本勘助公ら、名立たる武将は、その信仰篤く、戦いに際しては自身の兜の内側に小さく彫られた「摩利支天像」を入れて出陣したと言われています。
また、摩利支天真言を、忍者が敵陣に忍び込む際に唱えていたと言われています。
鎌倉末期〜南北朝時代
鎌倉幕府倒幕に活躍し、南北朝時代にかけて生き、後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成公も、「摩利支天」を篤く信仰していたと言われています。
天女神 下総摩利支天